第五十二段
仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩より詣でけり。
仁和寺にいる法師が、年をとるまで石清水を拝んだことがないことを気がかりにして、ある時、一人で歩いて参拝することにした。
極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。
極楽寺や高良神社などを拝み、これで全部だろうと思って帰った。
さて、かたへの人にあひて、「年比(としごろ)思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。
そして、知り合いに会ったとき、「ずっと気がかりだたことができました。噂に違わず素晴らしいものでした。
そも参りたる人ごと山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞいひける。
でも山の上まで登っていく人がいましたが、何があったのだろう、神にお参りすることが目的だったので、山の上までは登らなかったのですが。」と言った。
少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。
些細なことでも、案内人(や経験者)は欲しいものだ。
【仁和寺】
886年(平安時代)、光孝天皇の勅願により建立。
しかし光孝天皇は完成を見ずして崩御。
徒然草のこの段の話で有名なお寺。
【石清水八幡宮】
860年(平安時代)、空海の弟子である行教和尚が受けた神託により、清和天皇の石清水寺(現・摂社石清水社)の境内に社殿を造営したのが創建。
明治の初めに“男山八幡宮”と改名しましたが、石清水の社号が由緒深い社号であるため、大正7年には“石清水八幡宮”と改め現在に至る。
一大決心をした和尚が、石清水の情報が足らずに思い込みで参拝してしまった事を教訓とする話ですね。
本当は山の上に石清水八幡宮があったのに、八幡宮付属のお寺を巡って満足してしまいましたね。
“少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。”という言葉が表すように、あと少し情報があれば本来の目的を達成できたというワケです。
懐疑的になりすぎるのも窮屈ですが、何事も疑ってかかることは成功には必要なことです。
聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥と言うことわざに似て、今回の例は一生の後悔になりかねませんね。
でもこの和尚は自分が“知らない”ことさえ気付いていなかった様子です。
「分からなかったら聞け!」という人もいますが、分からないことが分からない状態なんて世の中沢山あります。
本当に賢い人は、分からないことを気づく人、分からないことを気づかせてくれる人なのだと思います。
コメント