歴史雑記

【日本史料のウラ話④】昭和天皇のマッカーサー訪問

歴史

この記事は、著書絵と写真でわかる へぇ~!びっくり!日本史探検を参考とした記事を書いていこうと思います。

  

絵と写真でわかる へぇ~!びっくり!日本史探検

  

教科書や資料集に載っているような日本史の史料から、絵や写真が取り上げられた背景などをまとめていきます。

   

史料から見える歴史の裏側を知ると、思わず「へ〜」と言いたくなる学びがあり、今の時代を生きるヒントが見つかるかもしれません。

   

今回取り上げるテーマは「昭和天皇のマッカーサー訪問」です。

 

  

昭和天皇のマッカーサー訪問

昭和天皇・マッカーサー会見(1945年)

 

昭和天皇とGHQ最高司令官のマッカーサーがともに並ぶこの一枚。

 

大東亜戦争(太平洋戦争)終結を説明する史料などでよく目にします。

 

原子爆弾を落とされてもなおも戦う意志を消さない旧日本軍部でしたが、ソ連が日ソ中立条約を無視して宣戦布告をしたため、ポツダム宣言を受諾するに至りました。

 

国民が敗戦を実感したのは、軍がポツダム宣言の影響や圧倒的劣勢の空気よりも天皇の言葉だったと個人的には考えています。

 

終戦の詔書(冒頭)

 

玉音放送によって昭和天皇が発せられた言葉を聞き、一億総玉砕の意志が鎮静化したのでしょう。

 

しかし、電波状況が悪いこともあって、何を言っているか聞き取れない人も少なくなかったといいます。

 

昭和二十年(1945年)九月二十九日、朝日、読売報知、毎日の三紙は、昭和天皇と連合国軍最高司令官マッカーサーが一緒に写った写真を新聞紙に大きく掲載しました。

 

玉音放送を聞き取れなかった人や敗戦を認め難い人も、この写真は日本の敗戦を国民に刻み込むことになったと考えられます。

 

 

写真を見てみると、正装して直立不動の姿勢をとっている昭和天皇に対し、マッカーサーは腰に手を当て険しい表情をしています。

 

白人の大男と小柄な天皇が対比されるようにも写る一枚ですが、実はこの写真入りの新聞記事は、ただちに内務省によって発禁処分となっています。

 

天皇に対して不敬であると判断したからです。

 

ところが、その日のうちにGHQ がこの発禁処分を取り消しました。

 

おそらくGHQは、「アメリカが日本人の新しい支配者なのだ」と認識させようとしたのでしょう。

 

こういった検閲を機能させていた内務省も、それから数日後に山崎巌大臣ら幹部が罷免され、 昭和二十二年(1947年)に解体されることになりました。

 

  

昭和天皇の振る舞い

この写真が撮られたあと、昭和天皇とマッカーサーは言葉を交わしたとされていますが、事前の取り決めによって何を話したのかは記録されていません。

 

ただ、後にマッカーサーが回顧録でこのときの場面を詳しく語っています。

 

彼によると、この会見は昭和天皇から申し込んできたといいます。

 

マッカーサーは「昭和天皇は自分の戦争責任を逃れるため、自己弁護をしにやってくるのだろう」と勘ぐりました。

 

二人が対面したとき、昭和天皇は深々と頭を下げたのに対し、マッカーサーは威張るように体を逸らして握手をしたと言います。

 

このとき通訳として同行した奥村勝蔵(おくむらかつぞう)によると、マッカーサーは厳しい表情で「天皇に伝えろ」と奥村に演説を行ったそうです。

 

演説が終わったこの瞬間までマッカーサーは、天皇がどう責任逃れを言うのかを期待していたでしょう。

 

しかし、それはとんでもない誤解だったことがすぐに分かります。

 

昭和天皇はマッカーサーの言葉の後にこう告げました。

 

私は、国民が戦争遂行にあたって、政 治、軍事両面でおこなった全ての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身 をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」(津島一夫訳「マッカーサ一大戰回顧録」より)

 

この言葉を聞いたマッカーサーは「私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格において日本の最上の紳士であることを感じとった」(前掲書)と大いに感激したのです。

 

アメリカや連合国の多くは、当初、昭和天皇の戦争責任を厳しく追及すべきだと考えていました。

 

しかし、マッカーサーが若い頃に来日した経験から、日本国民における天皇の存在の大きさを理解していた点も、彼の理解を深めるきっかけとなったはずです。

 

  

天皇制の存続が決まる

昭和天皇(1956年撮影)

 

昭和二十年(1945年)十二月、マッカーサーは天皇制の存続を連合国に認めさせるための策を幣原喜重郎内閣に任せました。

 

ここで検討されたのが天皇の扱い方です。

 

天皇の神性を否定すれば、昭和天皇の立場もよくなるはず”という案がもとで幣原首相本人が勅語の草案を執筆。

 

翌年一月、昭和天皇がそれを読み上げ、天皇の神格化を明確に否定したのです。

 

これがいわゆる“天皇の人間宣言”と呼ばれるものです。

 

 同月、マッカーサーは次の内容の極秘電報をアメリカ本国の陸軍省に打ちました。

 

もし天皇を裁判にかけたら、日本社会に動揺を引き起こし、さらに天皇を処刑するような事態になれば、日本人のアメリカに対する憎悪は何世紀にもわたって続く。きっとゲリラ戦など執拗な抵抗運動を招き、日本政府は機能を失って瓦解し、強固な共産主義政権が出来上がるだろう。そうなれば、GHQは占領政策を行うどころではなくなる。アメリカ政府は、さらに数十万人の人材を日本に派遣しなくてはいけなくなる

 

これによってアメリカ政府は、天皇制の存続を認める方針をとったのです。

   

後にマッカーサーは「天皇は日本の精神的復活に大きい役割を演じ、占領の成功は天皇の誠実な協力と影響力に負うところがきわめて大きかった」(前掲書)と述べるに至ります。

 

天皇の神聖性が否定されても象徴としての役割は失わず、日本人の心の支えとして残っていたことが分かるストーリーでした。

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