経済

【国富論⑪】国家として必要な経費〜公共の経費~

経済

【前回記事】

アダム・スミス(1723~1790年)

       

この記事ではアダム・スミス国富論を読み解いていきます。

         

見えざる手、自由放任主義……、どこかで聞いたことがこれらの言葉はここから生まれてきました。

        

経済学の始まりともいえる彼の著書を通して、世の中の仕組みについて理解を深めていただけたら幸いです。

          

前の記事から第五編に突入し、主権者や国家の経費についての内容をまとめていきます。

   

前回は、“司法費”について触れていきました。 

   

財産の所有が司法を生み、主権者は法によって秩序を保つことが義務であるという考え方をお伝えしました。

  

今回のテーマは“公共の経費”です。

 

主権者の第三の義務として、公共土木所業と公共施設を建設、維持する義務があるとスミスは述べています。

 

公共の経費には主にどのようなものを適用したらいいのかを、国富論から引用してまとめていきます。

  

   

主権者の第三の義務

〜引用 第五篇 第一章 第三節~

 

主権者または国家の第三のそして最後の義務としては、公共施設または公共土木事業を建設し、維持するという義務であって、それらは、たとえ一大社会にとっては最高度に有利でありえるけれども、その性質上、その利潤は、どのような個人的は少数の個人にもその経費をつぐなえず、したがってまた、どのような個人または少数の個人にもその建設や維持を期待しえないものである。

  

この義務の遂行もまた、社会の様々な時期により、はなはだしく異なる程度の経費を必要とするのである。

  

社会の防衛及び司法行政のために必要な公共施設及び公共土木事業についてはいずれも述べたが、それらにつぐこの種の事業及び施設は、主として、社会の商業を助長し、人民の教化を振興するものである。

  

教化のための施設は二種類あるのであって、青少年の教育のためのものと、あらゆる人民の教化のためのものとがそれである。

  

これらの様々な部類の公共土木事業及び公共施設の経費は、どのようにすればもっと適切に賄われるかということが考察されるので、本省のこの第三節は三つの異なる項に分かれるであろう。

  

〜引用ここまで~

 

国家の義務は公共事業を管理することだと述べています。

  

大きく分けて三つあり、一つ目は商業活動の助長、二つ目は青少年の教育、三つ目はあらゆる年齢層の教化だとしています。

 

社会の商業と民衆の教化に焦点を当てたスミスの分析を以下にまとめていきます。

  

  

①商業活動の助長

〜引用 第五篇 第一章 第三節 第一項~

  

良好な道路、橋、航行可能な運河、港などのような、一国の商業を助長する公共土木事業を建設したり、維持したりするのに、社会の様々な時期によりはなはだしく異なる程度の経費を必要とするに違いないということは、証明するまでもなく明白である。

 

一国の公道を作ったり、維持したりする経費は、明白にその国の土地及び労働の年々の生産物につれて、すなわちこれらの道路の上を往復することが必要になる財貨の量や重さにつれて増加するに違いない。

  

橋の耐久力はその上を通過するであろう車両の数や重さに適したものにしなければならない。

  

航行可能な運河の推進と給水量とは、その上で財貨を運ぶであろうはしけの数やトン数に比例させなければならないし、港の広さはそこに停泊するであろう船舶の数に比例させなければならないのである。

 

これらの公共、土木事業の経費が、普通にいわゆる公収入によって、すなわち、大抵の国ではその徴収や充用が行政権力に委託されている収入によって賄われる必要があるとは思われない。

 

このような公共土木事業の大部分のものを、その社会の一般的収入には、どのような負担もかけずに、それ自体の経費を賄うに足りるほどの収入をそれぞれにあげるように運営するのは、容易く出来ることなのである。

  

〜引用ここまで~

  

公共事業としてインフラ整備を行う必要性を述べていますね。

  

商業がやりやすい&物流が円滑であるということは、国富論で言うところの富(消費財)の蓄積に有利であることも意味します。

  

そこに投じる費用は、運ぶ際に使われる車両の重量によって変えたり、贅沢品として馬車などを利用する場合に徴収することが適切であるとも言っています。

 

  

②青少年の教育

〜引用 第五篇 第一章 第三節 第二項~

  

青少年の教育(the education of young)のための諸施設は、その経費を自弁するに足りるほどの収入を上げることができる。

  

学生が教師に支払う授業料、または謝礼は、自然にこの手の収入をなしているのである。

  

教師の報酬がこういう自然的な収入だけから生じないところでも、必ずそれを社会の一般的収入から、すなわち、大抵の国でその徴収や充用が行政権力に委託されている社会の一般的収入から引き出さなければならないということはない。

  

ヨーロッパの大部分を通じ、学校や学寮には寄付財産というものがあって、そのおかげでこの一般的収入には何の負担もかからず、かかってもごくわずかなものでしかないのもそのためである。

  

この寄付財産はどのようなところでも、地方または州の収入から、または若干の土地資産の地代から、あるいは若干の金額の貨幣の利子から主として生じるのであって、この貨幣は、ある時には主権者自身が、またある時には私人の寄贈者がこういう特定の目的のために割り当てたり、受託者の管理下に置いたりするのである。

  

〜引用ここまで~

 

若者の教育に対しても経費を投じるべきであるとされています。

  

この経費は社会全体で負担することも良いですが、個人的な授業料や寄付として受け取る方がより望ましいとスミスは述べています。

  

その方が教師や学校間での競争が生まれ、教育の質が上がっていくと考えたようです。

  

ほとんど何もしなくても給料をもらえるような、“やっているふりさえ見せない教師”の姿を見た彼の見解でもあります。

  

  

最低限の教育は必要

〜引用 第五篇 第一章 第三節 第二項~

  

公共社会は人民の教育に何の注意も払ってはならないのであろうか、と問われるかもしれない。

  

ある場合には、その社会の状態が個人の大部分を必然的にある地位に置くのであって、そこでは政府の注意などが全くなくても、その状態が必要とし、また恐らくは許容し得るところのほとんどすべての能力や徳が彼らの中に自然に形成される。

 

他の場合には、その社会の状態が個人の大部分を、こういう地位に置かないのであって、その結果、人民大衆がほとんど全面的に腐敗したり堕落したりするのを防止するために、政府が多少とも注意を払う必要があるのである。

  

分業が進展するにつれて、労働によって生活する人のはるか大部分、すなわち人民大衆の職業は少数のごく単純な作業にしばしば一つか二つの作業に限定されるようになる。

  

大部分の人々の理解力は、必然的に彼らの日常の職業によって形成される。

  

その一生が、少数の単純な作業の遂行に費やされ、その作業の結果もまた、おそらくは常に同一かまたはほとんど全く同一であるような人は、決して起こってもないような諸々の困難を除去するための便法を発見するのに、自分の理解力を働かせたり、または発明力を働かせたりする必要がない。

  

彼は自然にこういう努力を払う習癖を失い、およそ創造物としての人間が成り下がれる限りのばかになり、無知にもなる。

  

(中略)

  

改善されたあらゆる文明社会では、これこそ、政府がそれを防止するために多少とも骨を折らぬ限り労働貧民、即ち人民大衆が必然的に陥らざるを得ない状態なのである。

  

(中略)

  

たとえ国家が下層階級の人民の指導から何一つとして利益を引き出せないにしても、彼らが全く無指導のままにしておかれるべきではないということは、やはり国家の注意に値することであろう。

  

ところが、国家は彼らの指導から少なからぬ利益を引き出しているのである。

  

彼らは指導されればされるほど、無知な植民の間ではしばしばもっとも恐ろしい無秩序を引き起こすところの狂言や迷信に騙されることが、それだけ少なくなるのである。

 

その上、教育のある知的な人々は、無知で愚鈍な人々よりも常に礼儀正しく秩序を重んじる。

  

〜引用ここまで~

  

彼は学ぶことの大切さも併せて記しています。

  

分業の発達によって作業が単純化され、効率的になりました。

  

その一方、ルーティン化された作業のみをこなすような生活を続けると、問題解決能力や新しい何かをひらめくことをしなくなるという弊害も起こります。

 

社会はそんな習慣をなくすための対策を講じる必要があると言っています。

 

民衆が学ぶよう取り計らうことで、狂言や迷信に惑わされることがなくなり、秩序を保つことができると述べています。

  

  

③あらゆる年齢層の教化

〜引用 第五篇 第一章 第三節 第三項~

  

あらゆる年齢層の人民の強化のための諸施設は、主として、宗教上の教化のためのものである。

  

これは人民を現世における善良な市民にするというよりも、むしろ来世におけるもう一つの別の、よりよき世の中のために準備させることを目的とする教化の一種なのである。

 

こういう教化を内容とする教義の教師たちは他の教師たちと同じく、自分たちの生計費を、その聴聞者たちの自発的な寄付だけに依存させることもできるし、あるいはそれを土地財産、十分の一税つまり地租、定額の俸給つまり僧録というような自国の法律上、自分たちが受ける資格を持つ何か他の元資から引き出すこともできる。

  

彼らの努力、彼らの熱意および勤勉は、前者の立場においての方が後者のそれにおいてよりも遥かに大きなものになるらしい。

  

法律がある一つの宗教の教師たちを、他の宗教のそれらより以上に優遇するということがなかった国では、どの教師も主権者は又は行政権力に特別または直接の依存関係を持つ必要がなかったであろうし、また主権者にしても彼らの僧職の任免について、何の交渉を持つ必要もなかったであろう。

  

こういう事態においては、主権者は、自分の他の臣民の間においてと同じように教師たちの間の平和を維持すること、言い換えれば、彼らが互いに迫害し合ったり、侮辱し合ったり、抑圧し合ったりするのを阻止すること、これ以上の関心を持つ必要は全くなかったであろう。

  

けれども、国教または支配的な宗教がある国々では、事情は全く別である。

  

この場合、主権者はその宗教の教師たちにかなりの程度の影響力を振るう手段を持たぬ限り、決して安全ではあり得ないのである。

  

(中略)

 

宗教上の小宗派においては、庶民の道徳はほとんど常に際立って方正で秩序正しく一般に国境界におけるよりもはるかにそうであった。

  

実際のところ、これらの小宗派の道徳は、むしろ不快なまでに苛烈で非社交的なことがしばしばあったのである。

  

しかしながら、極めて容易で有効な救治策が二つあるのであって、それらの作用を結合させれば、国家はその国を分断していた全ての小宗派の道徳においてどのような非社交的なもの、またはどのような不快なまでに苛烈なものであったにせよ、暴力を用いることなしに全てを矯正することができるであろう。

  

〜引用ここまで~

 

民衆の宗教観に言及した項ですね。

  

宗教は道徳観を学ぶのにとても役に立っていたとし、宗教が自由であった国ほど互いの迫害は少なかったと述べています。

  

逆に政府が一つの宗教を贔屓するようなことがあれば、それに対する反発は大きなものであったようです。

  

宗教上の小宗派においては、方正で秩序正しい面がある一方、苛烈で非社交的なものも少なくなかったとされています。

 

また、それに対する対策案もあると言っています。

  

 

科学・哲学の知識と公衆娯楽

〜引用 第五篇 第一章 第三節 第三項~

  

これらの救治策の第一は、科学や哲学の研究であって、国家はこれを中流または中流以上の身分や財産を持つすべての人々のほとんど全部に行きわたらせることができるであろう。

  

そしてこの場合、教師たちは彼らを不注意で怠慢なものにするための俸給を与えずに、ある種の試験制度を設け、比較的高等で難解な諸科学においてさえ、あらゆる人が何らかの自由職業に従事することを許可される前にあるいは責任または収入を伴う何らかの名誉あるいは官職の候補者として受け入れられる前にこの試験を受けなければならぬようにするのである。

  

科学は熱狂や迷信という毒に対する偉大な解毒剤であり、上流の身分の人々の全てがこの毒を免れているところでは、下層の身分の人々がその非常な危険にさらされるわけもなかろう。

  

これらの救治策の第二は、公衆娯楽を盛んに行い、しかもそれを愉快なものにすることである。

 

国家はそれを奨励することによって、言い換えれば、もしある人が自分の利益のために、絵画や、詩や、音楽や、舞踏を通じ、また、あらゆる種類の演劇の演出や上演を通じて中傷、または不体裁なしに人民を楽しませたり、気晴らしをさせたりすることを企てる場合、国家はそういう人の全てに完全な自由を与えることによって、ほとんど常に大衆の迷信や熱狂の温床である、あの憂鬱で陰気な気分を、民衆の大部分のものの中から容易に消散させるであろう。

  

〜引用ここまで~

  

対策案の一つ目は、科学や哲学を中流以上の身分や財産をもつ者たちに学んでもらうことです。

  

名誉のある官職や俸給の高い職業に携わる場合、科学の理解を確かめるような一定のハードルを設けた試験をクリアすることを推奨しています。

  

上流階級の人々が聡明であれば、下級の人も熱狂や迷信に惑わされるものは少なくなるだろとスミスは述べています。

  

対策案の二つ目は、公衆娯楽を奨励することです。

  

創作や文化的な楽しみに自由を与え、気晴らしをする機会を提供することで、大衆のガス抜きになるだろうと考えたようです。

  

逆に言えば、そういうこともできない状態では、虚言や迷信めいた噂に騙され、民衆が変な方向へ動かされかねないということですね。

   

  

まとめ

・国(主権者)の第三の義務=公共事業

・国がやるべき公共事業としては三つある

・公道や港など商業に関わる事業

・青少年の教育のための施設

・人民の教化のための取り組み

  

以上、公共の経費についてのまとめでした。

 

インフラの整備と教育といった内容でしたね。

 

国や主権者がなんでもかんでも費用を出して解決するというより、必要なところとそうでないところの仕分けをしながら分析していることが分かります。

  

特に教育の点では、学ぶことは単に頭が良くなるということではなく、誰かに騙されたり、迷信に惑わされることなく、冷静な判断を下すことができるという点に大きな意味があるという点にはとても同意します。

ルーティンワークで同じことの繰り返しだと問題解決能力を失うばかりか、新しいアイデアも浮かばなくなるという指摘は心に刻んでおきたい言葉でした。

 

【次回記事】

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