甘い判断からくる地獄の漂流~メデューズ号事件~

雑学
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歴史の中には船の難破による事故がいくつも存在します。

 

それらの航海日誌などの記録を見ると、食うものに困り死人の肉にも手を出す地獄のような漂流の様子が記されています。

 

今回はそんな船の難破(座礁)事件のひとつであるメデューズ号事件についてのお話です。

  

メデューズ号事件の発端

時は19世紀フランス。

  

フリゲート艦メデューズ号はパリ条約によって植民地返還を受けるために、フランスのロシュフォールからセネガルのサンルイに向けて出航することになりました。

  

艦長はユーグ・デュロワ・ド・ショマレー子爵

 

彼は20年もの間航海から離れており、十分な経験があるとは言えませんでした。

 

しかし、ナポレオンの失脚後、時の権力者ルイ18世が海軍に王党派の勢力を広げるために子爵を選んだとされています。

 

1816年6月17日、乗員を含めた400人を乗せたメデューズ号は、同じくセネガルを目指す僚艦3隻(ロワール、アルギュス、エコー)と共にロシュフォールを出航することになりました。

  

  

ルートの選択ミス

6月27日、ポルトガルのマデイラに到着した頃、セネガル総督に選ばれたジュリアン・デジレ・シュマルツは最短ルートを辿って目的地まで行くことを望みました。

  

ショマレー艦長もその方針に同意。

 

しかしそのルートは海岸に極めて近く、船団全体を危険にさらすことになるため選んではいけない進路でした。

  

航海の途中、エコー号は命令にあった進路から外れるメデューズ号を誘導しようとしましたが、船団中最も早いメデューズ号に追いつくことができず失敗。

  

安全を考えたエコー号は外洋へ戻っていきました。

  

  

経験不足からくるミス

最短ルートで航海を続けるメデューズ号は水平線に見える雲を岬と見間違えたり、浅瀬のサインである白い砕け波などの兆候を無視したりと経験不足からくる失敗続き。

  

7月2日頃には危険な状態でアフリカの海岸に近づいていってしまいます。

  

同乗していた海尉は危険に思い、命令を待たずに自ら水深を計りました。

  

計測の結果は水深約33メートル。

 

この報告を聞いたショマレー艦長は、やっと危険を理解し帆を張るよう命令します。

  

外洋に向けて舵を切ったものの時すでに遅し。

 

メデューズ号は海岸から60マイル(約97 km)沖で座礁してしまいました。

  

アルガン岩礁で難破したメデューズ号

  

そして座礁したタイミングは丁度満潮の時、水位が上がらないため船の浮揚が困難に。

 

さらに船に備えつけられていた砲14門(1門3トン)の放棄を艦長が拒み、船の離礁は不可能な状態になりました。

  

離礁に当たり様々な計画が立てられましたが、採用されたのは長さ20メートル、幅7メートルの“筏(いかだ)”を作り船の荷物をそこに移すというものでした。

 

メデューズ号の筏の設計図

  

 

ボートと筏

7月5日、海風が強風に変わり船が壊れる兆候が見えてきました。

  

艦長は船の放棄を宣言し、全員を船から離れるよう指示します。

  

しかし乗員乗客400名に対し、非常事態用のボート2艘には250人までしか乗ることができません。

  

乗員の内17名は船に残ることを決め、艦長を含むその他の船員や高級士官はボートへ。

  

残った146人の男性と1人の女性は荷物を置く予定だった筏に乗せられることになりました。

  

テオドール・ジェリコー作「メデューズ号の筏」1818~1819年

  

筏にはほとんど必需品が積まれず、食料は乾パン1袋、水数樽のみでした。

  

そして2艘のボートと筏をロープで繋ぎボートがけん引する形で約100㎞の海岸まで到達しようと試みます。

  

その結果無事全員が海岸まで辿りつき、事件は一幕を下ろすことになりました。

 

……と都合よくはいきませんでした。

  

ボートはけん引を試みたものの、すぐに筏を引いて海岸まで進むことは不可能なことに気づきました。

  

ボートの乗客員は、筏の者たちが無理してボートに乗ろうとすることを危惧し、ロープを切断することに……。

 

このとき筏にいた者たちには海を進む手立てがなかったため、大海原を漂流することが決定しました。

 

 

漂流

漂流者たちの状況は劣悪を極めます。

  

取るに足らない食料は文字通り1日で食い尽くし、飲むはずだった水のほとんどは海に沈み、望の水の樽を開けてみると中身は水ではなくワインという始末、さらには筏の底は水が浸水している状況も追いうちをかけ、心身ともに衰弱の一途をたどります。

  

漂流が始まって早々に、士官や乗客の間で争いが起こり、その日の内に20人が殺害もしくは自殺によって命を落としています。

  

波が荒れると安全な中央部を狙って争いが多発。

  

中央部にいない者は波にさらわれて海に消えていくという地獄と化していました。

  

漂流4日目になると生存者は67人にまで減り、飢えと渇きから食人まで行われたとも言われています。(否定する証言もあり。)

 

漂流から8日目、絶望し海に身を投げ出す者も現れ始めます。

  

まだ元気あるものは傷ついた者や衰弱しきっている者を海へ沈め、この時点で残る生存者は15人のみとなりました。

  

漂流から14日目の7月17日、偶然近くを通りかかったアルギュス号が彼らの筏を発見します。

  

実はこの時フランス政府は生存者の捜索を行っていなかったため、筏の発見は奇跡中の奇跡と言われています。

  

この時救出された人数は15人。

  

8日目を生き延びた者全員が救出されることになったのです。

 

後に、艦長であったショマレー子爵が座礁した船に残った黄金を回収しようと回収部隊を派遣。

  

原型を留めていたメデューズ号には何と脱出の際に船に残った17人の内3人が生存していました。

 

彼らは救出され、無事フランスへと帰国することができました。

 

救出まで実に事故から54日を経過していたそうです。

(ちなみに最初にボートで脱出した者たちはほぼ全員が助かっています。)

 

  

まとめ

以上、この一連の流れをメデューズ号事件としてまとめさせていただきました。

  

この件でショマレー元艦長は、不適切な操艦と乗客が全員脱出する前に船を放棄した件など5つの罪状が言い渡されました。

  

しかし船団の遺棄、船の離礁の失敗、および筏の遺棄について罪に問われることはなく、処罰も勲章のはく奪、海軍からの追放、3年の収監という明らかに軽いものでした。

   

しかしこの事件は、政府が隠蔽しようとした一大スキャンダルとして報じられ、世間に大きく注目されることとなったようです。

  

この事件の大きな原因は、能力のない人に大役を務めさせてしまったことですね。

 

もしショマレーが乗ったのが最速のメデューズ号ではなく他の僚船であれば、不審な動きをした際に静止できたかもしれません。

  

いずれにして大切な仕事は能力のある人物がやった方が良さそうですね!

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