紀元前400年頃、エジプトの大都市アレクサンドリアで新プラトン主義の哲学を学ぶ学園(プラトニスト学校)がありました。
新プラトン主義とは、プラトンが掲げるイデア(完全なるもの)を“一なるもの”と位置付け、万物はそこから流出したという考えに基ずく考え方です。
真理は人間が認識できるものではないため、考えられないものをあれこれ言うのではなく、沈黙のうちに真理と一体化しようという神秘主義的な考え方でもありました。
学長を務めるのは数学者で天文学者で哲学者のヒュパティアです。
彼女の父テオンは“(当時の)哲学者の中でも最大の賢人”と言われるほど聡明な人物でした。
当時教科書として使われていた、プトレマイオスのアルマゲストやエウクレイデスの原論に注釈を加え生徒が学びやすいように編纂するなど、教育の分野においても才能を発揮しました。
そんなテオンに育てられたヒュパティアは勉学における才能も突出していて、父の助手の経験を経て算術を学ぶ頃には当時の数学の全てを理解していたと言われています。
彼女は宗派にとらわれず、あらゆる人に勉学を教え知を与えていました。
いつしか市民の枠を超え、アレクサンドリアの長官や高官たちが彼女の教えを聞き、助言を求めるようになっていきます。
この頃にはアレクサンドリアのプラトニスト学校長に任命され、国外からも多くの支持者や生徒が集まりました。
ヒュパティアに忍びよる影
彼女の華々しい活躍を讃える者もいれば、それを妬む者も現れはじめます。
ヒュパティアが掲げる新プラトン主義の主張を“神の姿は見えないのだから、考えても仕方がない”と歪曲して解釈した少数グループが、キリスト教信者などを煽り火種を大きくしていきます。
あるとき、アレクサンドリアの長官オレステスと大司教キュリロスとの間に対立が起こります。
キュリロスがアレクサンドリア主教になると、異教徒(主にキリスト教徒でなかったユダヤ人)の迫害を推し進めていきます。
対してヒュパティアの優秀な教え子であったオレステスは、異教徒と協調路線の姿勢をとっていました。
オレステスは異教徒への迫害と破壊活動を法律で禁止するも、キュリロスは異教徒の強制排除を断行します。
オレステスはこれに抗議し、暴力沙汰が起こるまでに。
対立は混乱の極みに達した頃、キュリロスは“ヒュパティアがオレステスに入れ知恵をしている”との噂を耳にします。
キュリロスの彼女への憎悪はますます募っていくのでした。
ヒュパティアの惨殺
415年3月、ヒュパティアが講演中に暴徒が乗り込んできます。
ヒュパティアを亡き者にしようと考えたキュリロスの手下と思われる集団でした。
ヒュパティアは馬車で逃げようとするも、暴徒たちによって引きずり降ろされ誘拐されてしまいます。
協会に連れ込まれたヒュパティアのその後は凄惨なものでした。
鋭利な牡蠣の貝殻で生きたまま肉を削がれ、絶命するまで筆舌に尽くしがたい責め苦を受けました。(気になる方は調べてみてください…。)
これからの哲学界の発展を担っていくはずだった天才の死でした。
また彼女の死は、学園の閉鎖に伴う知的活動の終わりと、これから始まる暗黒時代の始まりをも予期させるものでもありました。
このことを耳にした、オレステスは彼女の死について追及しようと考えます。
しかしキュリロスの圧制により事態はもみ消され、仲間も次々と買収されていくオレステスは、遂にアレクサンドリアを去ることになるのでした。
終わりに
ヒュパティアの死後、彼女の学園の生徒はアレクサンドリアに残る者、国外へ旅立つ者など様々でした。
後の暗黒時代に行われた大規模な破壊活動を超えて、現在まで学問の内容が受け継がれたり、文献が残るのはヒュパティアの意思を継いだ彼らの見えない尽力があったからだと思います。
“父テオンが注釈したアルマゲストへの加筆”や、“天文学規範などの論文”を著するなど多くの功績があったにもかかわらず、ヒュパティアが残したものは断片的にしか伝わっていません。
これも、後の世の動乱によってアレクサンドリア図書館が破壊されたことが主な理由と考えられます。
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