プロテスタントの語源~ルターと宗教改革②~

歴史
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の続き。

 

聖書の翻訳

フリードリヒ3世によって匿われたルターがはじめに行ったことは、聖書をラテン語からドイツ語に翻訳することでした。

 

10か月に及ぶ翻訳作業と活版印刷の発展によって、多くのドイツ人が聖書を読むことができるようになりました。

 

聖書には贖宥状のことも、ローマ教会の教えが絶対であることも書かれていませんでした。

 

聖書の中のイエスや弟子は、当時のローマ教会聖職者のような贅沢はせず、質素な生活をしていたことが分かり、教会を批判する声は瞬く間に広がっていきました

 

 

ドイツ農民戦争

トマス・ミュンツァー(1489~1525年)

 

ルターの主張に強く賛同していた人物のひとりの、トマス・ミュンツァーがいました。

 

彼はルターの影響を受け、宗教改革者となります。

 

しかしトマスの思想はルターの主張を超え、聖書では否定されていなかった“領主の存在”を否定しはじめます。

 

過重な労働や税金への拒否を訴えたのです。

 

この訴えに呼応した農民たちによって勃発した戦争が“ドイツ農民戦争”です。

 

ドイツ農民戦争

 

30万人の農民が決起したこの戦争は、ドイツ中部から南部にかけて戦火は広がっていきました。

 

その一方、ルタードイツ農民戦争には強く反対していました。

 

聖書の教えからかけ離れた行動に異を唱え、ドイツ諸侯に鎮圧を呼びかけます。

 

最終的に各諸侯によって弾圧され、この戦争は10万人の死者を出した末に沈静化します。

 

戦争によって失ったものは多かったですが、この戦争によってルターの考えは全ドイツが知ることになりました。

 

 

神聖ローマ帝国の危機とルター派の容認

カール5世

一度ルター派を容認して、諸侯の力を集結させよう。

ドイツ農民戦争の渦中、カール5世ルター派の禁止決議を進めていました。

 

しかし状況は一変。

 

コンスタンティノープルを攻略したオスマン朝がウィーンに攻めてきたのです。

 

直前までフランスと戦争していた神聖ローマ帝国の国力は疲弊しきっています。

 

そこで最重要拠点であるウィーンを守るために、カール5世がドイツ諸侯の力を集結させようとしました。

 

そうなるとウィーンの危機に際し、ルター派の諸侯をも味方に引き入れる必要があります。

 

そのためルター派の禁止決議は一時保留扱いにし、諸侯の領内における宗教改革を容認しました。

 

その結果、オスマン朝に攻められたウィーンは落城寸前まで追い込まれますが、冬将軍によりオスマン軍が撤退、危機を脱することができました。

 

 

プロテスタントの誕生

<strong>カール5世</strong>
カール5世

危機も去ったことだし、ルター派の禁止を…。

オスマン帝国を撃退したカール5世は、ルター派の禁止決議を再開させます。

 

しかし、この頃になるとルター派の勢いは収まらず、決議の際には5人の諸侯と14の都市が決議に反発。

 

カール5世に向けて抗議文を突き付けます。

 

この一連の抗議(プロテスト)から、ルター派はプロテスタントと呼ばれるようになっていくのでした。

 

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