織物商がレンズを磨いて科学者に!~レーウェンフック~

レーウェンフック 歴史
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オランダの商人(科学者)レーウェンフックは、歴史上初めて顕微鏡を使って生物を観察した人物です。

  

顕微鏡を使い、それまでほとんど謎だったミクロの世界の扉を開きました。

  

今回はそんな一人の人物についてフォーカスしていきます。

レーウェンフック
アントニ・ファン・レーウェンフック(1632~1723年)

 

  

レーウェンフックと顕微鏡

彼はもともと科学者でもなければ自然哲学者でもありません。

  

それどころか、生物に関して専門的な教育を受けたことすらない織物商のひとりでした。

 

仕事の傍らガラス球をみがいていた彼は、卓越した研磨技術を用いていつしか自分用に顕微鏡を作るようになっていきます。

 

彼が作った顕微鏡の倍率はおよそ270倍。

  

当時すでに開発されていた顕微鏡はありましたが、彼の顕微鏡はその10倍以上の倍率でものを見ることができました。

レーウェンフックの顕微鏡
レーウェンフック式顕微鏡(針の先に試料を載せて、向こう側からレンズで覗く。)

  

彼は生涯で500もの顕微鏡を作ったとされています。(そのうち現存しているのは9個)

  

当時の同じ微生物の研究をしていたロバート・フックが使用していた顕微鏡でも精々50倍の倍率だったことを考えると、かなり高精度の顕微鏡を作ったと考えられます。

  

レーウェンフックの小世界

レーウェンフックは自らの顕微鏡を用いて多くのものの観察をはじめました。

  

それまで顕微鏡で何かを見たという報告は多数ありましたが、その様子を観察し、詳細に記録したのは彼がはじめてでした。

  

このおかげで微生物は自然発生するのではなく、卵によって孵ることや、生死があることが明らかになります。

レーウェンフックによるスケッチ
レーウェンフックによるスケッチ

  

熱心に研究をしていたレーウェンフックですが、彼は学校を中退していたため自身の研究を発表する場がありませんでした。

  

そこで彼の業績に目をつけたオランダの医師(解剖学者)ライネル・デ・グラーフは、ロンドン王立協会に彼の研究記録を送ります。

ライネル・デ・グラーフ
ライネル・デ・グラーフ(1641~1673年)

  

レーウェンフックの顕微鏡による記録にはこう書かれていました。

  

レーウェンフック
レーウェンフック

“わずか一滴の水の中に、おびただしい数の生物が存在している。これほど美しい光景を私は見たことがない。”

  

微生物の存在が知られていなかった時代背景もあり、記録を見た王立協会のメンバーには興味を持つ者もいれば、妄想であると見向きもしない者もいました。

  

彼の研究はでたらめであるという誹謗中傷も多くありましたが、彼は全く意に介しませんでした。

  

それどころか、レーウェンフックオリジナルの顕微鏡を王立協会に提出したくなかったため、研究の証拠として弁護士や地元大臣による宣誓供述書を送ったそうです。

 

  

名が知れ渡るきかっけ

ロンドン王立協会会長ロバート・フック
ロンドン王立協会会長ロバート・フック

彼の名が世に知れ渡ったのは、王立協会会長のロバート・フックが彼を認めたことにあります。

  

超超超懐疑的で、めったに人を褒めず、他人の業績に常にケチをつけることで有名なロバート・フック会長。

  

他の学会員がレーウェンフックの研究に懐疑的な中、ロバート・フックは彼の記録を評価しました。

  

彼もまた顕微鏡によって微生物の世界を研究していた人物だったため、レーウェンフックの凄さが分かったのでしょう。

 

これを期に彼の研究に対する風向きが変わっていきました。

 

  

レーウェンフックとレーウェンフック

それでも懐疑的な研究員がいましたが、彼の業績を認めることの止めになった出来事がありました。

  

当時のロシア皇帝ピョートル大帝(一世)の訪問です。

ロシア皇帝ピョートル1世
ロシア皇帝ピョートル1世

1698年、既にロンドン王立協会会員になっていたレーウェンフックの元に、ピョートル一世が直々に出向いたのです。

  

レーウェンフックはすぐに顕微鏡と生きたウナギを持ち、停泊している大帝の船に赴きました。

  

およそ2時間による研究記録や手記の説明、ウナギの毛細血管の観察に大帝は関心に帰っていったそうです。

  

これ以降レーウェンフックの研究への批判はなくなり、生物学者としての地位を固めていきました。

  


  

以上、レーウェンフックについてのまとめでした。

  

当時としては一商人が大発見をした珍しい例でもありますね。

  

きっとそのことも王立協会会員が彼を認めたくなかった原因にも思えます。

  

ちなみ彼が43歳(1675年)の頃、画家のヨハネス・フェルメールの遺産管財人になります。

  

暮らしていた場所かなり近かったこともあり、二人の間に交友関係があった可能性が高いと考えられています。

  

確たる証拠はありませんが、もしそこまでの交友関係があったとした、フェルメールの絵にレーウェンフックがモデルになったものがあるかもしれませんね

ヨハネス・フェルメール 真珠の耳飾りの少女
ヨハネス・フェルメール作「真珠の耳飾りの少女」(1665年頃)

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