【前回記事】
シャーロット王妃とクイーンズウェア
ブリック・ハウスに工場を移転したジョサイアは、アスパラガスや卵ゆで籠など様々な商品をカタログに登録し、一般家庭に向けても安価で丈夫な製品を提供していました。
また彼は、商品を広く販売するため、ロンドンにショールームを構えてビジネスを拡大しようと考え、兄のジョンを管理者に依頼しました。
ジョンがロンドンへ常駐することになってから数ヶ月後の1765年6月、なんとシャーロット王妃から陶器の作成依頼が舞い込みます。
と言うのも、ジョンがスタッフォードシャーの貴族と食事をともにした際、ウェッジウッド製の陶器が話題に上がったことがきっかけだったそうです。
白い陶器が珍しかった時代、ジョンが紹介した美しい光沢のあるクリーム色の陶器は貴族の間で話題となりました。
この評判がシャーロット王妃のもとに届いたことで注文が入ったというわけです。
このとき依頼されたのは、紅茶カップとソーサー12点、蓋と脚のある茶かす入れやシュガーポット、手掛け燭台6組など、王妃が日常のテーブルで使用するものばかりでし、年の暮れには納品が完了しました。
これらが王室で使用されることなると、ウェッジウッド製のクリーム色の陶器は瞬く間に王侯貴族の話題となります。
そればかりか、シャーロット王妃がウェッジウッド社の後援者となり、ジョサイアは“王室お抱えの陶工”として公的特権を授かりました。
また、クリーム色の陶器は王妃から“クイーンズ・ウェア”と命名され、ウェッジウッドの特別なモデルとして認知されるようになっていきます。
こういった背景から創業間もない小さな工房はたちまち人気となり、王侯貴族をはじめ有権者らからの依頼が殺到。
ブリック・ハウスも手狭になってしまい、操業開始からわずか5年で新たな工場へ移転することになります。
エトルリア工場
工場の移転に伴い、ジョサイアはベントレーとともに新工場の構想を練ります。
それは、それまで作ってきた実用的な陶器だけでなく、美術品としても優れたものを作りたいと考えました。
特に文学や歴史、哲学に精通していた二人は、古代ローマ・ギリシャ様式を作品に落とし込むことに胸を躍らせていました。
焼き物の中心地であるストーク・オン・トレントから2kmほど離れた土地を購入し、新工場の建設が始まりました。
しかしこのタイミングで、天然痘による後遺症を患っていた右足の状態が悪化し、膝から下を切断する大手術を行うことになりました。
記録された状態から悪性の骨髄炎であると推察されており、麻酔や殺菌の技術が未熟な当時では、生死を伴う危険な術式となりました。
幸いにも術後の容態は良好で、1769年6月に新工場が建設された頃には、今後の展望についてベントレーと議論を交わせるほどになっていました。
新設された工場は「エトルリア」と名付けられ、ウェッジウッドが躍進を遂げるための重要拠点となっていきます。
「エトルリア」は紀元前8世紀から紀元前1世紀ごろにイタリア半島中部にあった都市国家の名前で、かつてローマで優れた陶器を作っていたことからこの名が採用されました。
エトルリア工場では、兼ねてからジョサイアが研究してきたブラックバサルトという黒い炻器の開発が進みました。
バサルトは玄武岩を意味する英語で、ブラックバサルトもそのような硬くて黒く美しい炻器を目指して試行錯誤されていました。
以下の図はブラックバサルトで作られた「初日の壺」という作品です。
エトルリア工場開業初日にジョサイア自身がろくろを回して仕上げた作品で、工場の繁栄と同時に、エトルリア芸術や古代ギリシャ・ローマ様式など古典美術の再興を願って作られました。
そしてこのブラックバサルトの技術とジョサイアの思想は、ウェッジウッドをウェッジウッドたらしめる至高の逸品を生み出すことになります。
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