【前回記事】
生物学と宗教観
大学の自然博物館でグラントと親交を深めたダーウィンは、やがてジャン=バティスト・ラマルクの学説に触れていくことになります。
ラマルクは19世紀に活躍した生物学者で、「生物学(biologie)」という言葉を世に広めた人物です。
それまでは生物は、“ある時点から神によって創造されたものである”という宗教観が根強く、“長い年月をかけて変化した”という考えは受け入れられませんでした。
しかし、1789年のバスティーユ牢獄襲撃を端に発するフランス革命によって教会の権威は失墜。
それまでの宗教的な考え方から、より自由な思想が生まれることになります。
ラマルクもこの革命を歓迎し、自らの貴族の称号を捨てるとともに、創造論信仰に立ち向かっていきます。
彼は、全ての生き物は下等な生物から高等な生物に変化していったという進化論に似た考え方を持っていました。
彼は、「生物が成長していく中で、頻繁に使う器官は発達し、そうでない器官は退化する」という“用不用説”を訴えており、繁殖を通じて次の世代に伝わることで変化が生じると主張しました。
現代の科学では、生物はDNAの塩基配列に従って発生し体の構造が決定されるため、後天的に得られた形質(用不用の情報)が次世代の塩基配列に影響することはありません。
そのため、ラマルクの考えのような変化は生じていないことになります。
しかし、革命による時代の移り変わりは、そんな急進的な主張を受け入れる土壌を作っていったのです。
大学の退学と甲虫への興味
父の意向とはかけ離れた大学生活を送っていたダーウィンですが、それを見かねた父に実家に呼び戻された際、エディンバラ大学を中退させられてしまいます。
この頃、一生暮らせるだけの遺産を相続することが決まったこともあり、将来食べるための勉強よりも今目の前にある研究に没頭したかったのでしょう。
再びダーウィンの進路を考えた父は、今度は彼を牧師にすべくケンブリッジ大学への入学を進めました。
聖職者なら世間からも認められる職業であり、仕事の傍らで生物の観察などもできるだろうという父の配慮でした。
そう期待したのも束の間、エディンバラ大学のときのように大学に必要な勉強よりも、昆虫採集に熱中していきます。
ケンブリッジ大学では、クリケットやボートレースなどの課外活動が人気でしたが、昆虫採集も若者から注目の的でした。
この頃、彼が昆虫採集の仲間に宛てた手紙にはこのようなことが書かれています。
「樹皮の下に2匹のゴミムシを発見した。
両手に1匹ずつ捕まえたところ、珍しいヨツボシゴミムシを発見した。
両手のゴミムシを諦めたくなかったし、ヨツボシゴミムシを見逃すこともあり得ない。
苦肉の策として私は片手のゴミムシをそっと歯に挟んだ。
するとゴミムシが私の喉目掛けて液体を噴射し、言い表せないほどの痛みと不快感に襲われた。
結局すべての虫を取り逃してしまった。」
この時ダーウィンが捕獲していたゴミムシの品種が何だったのかは本人すらも覚えていないため謎のままですが、ミイデラゴミムシなど一部の昆虫は、体内の化学物質や酵素を反応させて身を守る種類もいます。
きっと彼もその類の防衛システムにしてやられたのでしょう。
後の自伝でもこのことを引き合いに出すほどだったため、よほど印象に残った出来事だったようです。
そんなケンブリッジ大学時代ですが、彼の人生を左右する大きな出会いが訪れます。
植物学者ジョン・ヘンズローとの出会いです。
ヘンズローは昆虫や地質学に造詣が深い人物で、ケンブリッジ大学でも教鞭を執っていました。
学校の講義を真面目に受けていなかったダーウィンも、彼の講義と野外実習には3年間参加するだけでなく、毎週金曜にヘンズローが催す晩餐にも参加するほど慕っていました。
ヘンズロー自身も、ダーウィンの生物に対する興味と知識、フィールドワークで見せる採集能力を高く評価していました。
ただ、もしダーウィンが生物学者として生きていくならば、彼が一生学ばないと決めていた“地質学”は必修科目であることも告げ、地質学教授のアダム・セジウィックを紹介しました。
恩師の言葉と一流の地質学者のもとで学ぶ機会を得たダーウィンは、次第に他の勉強にも向き合うようになり、ケンブリッジ大学の卒業試験もそこそこの成績で合格しています。
心残りとしては、セジウィックと共にウェールズ方面の地質調査に同行できなかったことです。
岩石の同定や年代の測定方法などを学んで入念に準備したにもかかわらず、不運にも友人の死去と重なったために調査に参加することができなかったのです。
ダーウィンはかなり残念がっていたようですが、こういったヘンズローらとの出会いと学びが、後の功績への大きな足掛かりとなっていきます。
ビーグル号の船員募集
あるときヘンズローのもとに、イギリス海軍から依頼の手紙が届きました。
それは、「軍艦ビーグル号に乗って世界を巡る博物学者を推薦してほしい」という内容でした。
ヘンズローはこのとき妻との間に子どもが生まれたばかりだったことや、仕事で大学を離れることが難しかったことあり、この世界の探索に愛弟子のダーウィンを推薦しました。
ヘンズローがダーウィンに送った手紙には、「私の知る限り、そのような仕事を引き受けてくれそうな人の中で君がもっともふさわしい人物だ」と書かれてあり、ダーウィンはこの手紙に歓喜しました。
しかし、父はこれに強く反対しました。
聖職者になるために世界一周をする必要などなかったからです。
旅の費用は海軍は負担しないことが決まっていたため、出資者である父の合意がなければ出発することができません。
命の保障もないため、仲の良かった姉妹たちも反対の姿勢を示しました。
結局、逆風に抗うことができなかったダーウィンはこの誘いを断ってしまいます。
乗船しない決断をした息子に一安心した父でしたが、息子が聖職者になることよりも博物学の研究に熱狂していることも理解していました。
それに、「信頼の置ける人物が息子を推薦しているなら……」と考えを改めていきます。
ここで父は、親戚でありかねてから親交のあったジョサイア・ウェッジウッド2世に判断を仰ぎました。
ウェッジウッド家はダーウィンの世界を巡る旅に大賛成をし、これによって父も最終的には息子の旅を許可しました。
こうしてダーウィンは、生物の多様性と進化の謎に出会う旅に出発していくのです。
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